存在は空性である。現象は絶えず変化している。物事は固定的実体としては無い。自他は一枚の紙の裏表である。言語は常に相対にある、差異の体系である。言語に実体を求めることは不可能である。言語は現象である。およそ人の思考のあるところ言語の概念操作による。真理は分別の中には姿を現さない。虚空そのものを己の体として自覚する三昧の中に般若はある。あらゆる認識と現象に心奪われ執着してはならない。つまり執着する対象そのものが陽炎の様なものであるからである。あらゆる存在は共時性の性格を有する。しかし人の認識は通時性による、時間と空間の延長の上に存在を認識する。このことから仏陀と衆生とは不二平等である事が真理であるが、人はこのことに疎いこれを迷いという。過去の釈迦仏も未来の弥勒仏も吾らの仏性である。ここに信心の基がある。己の本心を自覚して生きる、これを行う。このことが修業である。仏の命を修行するのである。常に頭を天に貫き堂々と生きねばならない、人はそれに値する存在であるからである。悪心を離れ慈悲を育み生きねばならない。それは仏の命を宿している貴方の責務である。尊き方仏陀と優れた法なる般若と実践者菩薩に帰依し奉る。